「今日を生きる」ことだけ考えたいのだ。

ブログ名を「今日を生きる」にした。超ありきたりだけど、今やりたいことはこれだけだからだ。

過去のことをいつまでも振り返ったり、未来のことばかり考えるのはやめにしたい。特に未来に関しては、下のような想像は非常にアホらしいので卒業したい。

モルドバ人女性と結婚する
・ハーフのかわいい娘ができる
・その前に、資産家になっておく
・資産10億円持っていて、投資収入だけで年収3000万円はある
・子供と一日中遊ぶ
・バスケとかボイパとかボーカルとか子供にいろいろ教える
・子どもが宇多田ヒカルみたいな歌手になる

…文字にすると非常にバカバカしい内容だ。何というか、こんなにひどくないつもりなのだが、文字にするとひどいな。

大金を稼ごうとすることはいいことだと思う。「世界の99%は仮説である」という事実を、お金はよく教えてくれる。真実などどこにもないのだ。真実は、人間的かつ動物的な感情を除けば簡単にひっくり返るもので「こういう仕事が正しい」とか「間違っている」というのはないのだ。

以前、さんざん軽蔑されていたYoutuberが、ヒカキンを中心に市民権を得てきた。ヒカキンは大分リスペクトされるキャラになりつつある。このままYoutuberは今のタレントのように職業として定着するだろう。梅宮アンナまでYoutuberに転向したらしいし。


曽野綾子が小説家を目指した若い頃、小説家なんて完全にやくざの職業だったらしい。今だと「いい夢」としてある程度尊重していただけるが、そんな雰囲気もなかったらしい。なれるかどうかでなく、下賤な職業とみなされていたらしい。

(だから、小説というように「小」という文字が入るのだとか)

当時すでに夏目漱石とか森鴎外とかいたのだから、そんなことはないだろうとは思うのだが。でも、いろんな常識が時代と共に覆るのは確かだ。

というわけで、何が正しいかはある程度「お金に聞く」というのは一理あるのだ。犯罪でなく、グレーゾーンでもなければそれは悪い仕事ではないのだ。

グレーゾーンの仕事は個人的には悪いことだと思う。たとえばアムウェイを「詐欺まがい」と評価することは、最高裁も認めている。そういう名誉毀損の裁判があって、最高裁が「詐欺まがいという表現は適切である」として、アムウェイの訴えを退けたのだ。

詐欺は詐欺罪という犯罪である。つまり詐欺まがいというのは「犯罪間違い」とイコールだ。それを裁判所が認めたのだ。一番上の最高裁が。

ということは、グレーゾーンの仕事はやはり「犯罪一歩手前」なのでやるべきではないのだ。だから、そういう仕事ではない仕事で資産を築くというのはとてもいいことだと思う。

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…つまり、資産を築こうと思うこと自体は悪くない。内村鑑三も『後世への最大遺物』の中で、下のような思い出を語っている。

(思い出しながら引用)

私が少年だった頃、牧師が私に将来の夢を尋ねた。私は「事業を興し、多くの資産を蓄えたいと思います」と言った。

牧師は激怒した。そのような考えはキリスト者にあるまじきものだと。そのような考えは改めなさいと。

しかし、私は考えを変えなかった。今も変えていない。(中略)

私はイエス・キリストの名の下に、一点の曇りもなく君たちにいう。「君よ、金を蓄えたまえ」と。

(引用終わり)

思い出しながら引用してみて、もう一度この本を買って、この部分を暗唱しようかなと思った。間違いなくこれからの自分の人生の指針になるだろう。


とまあ、何はともあれ資産を築こうとすることはいいことだ。僕があらためたいのは「未来の妄想ばかりして、今すべきことをしない」ということだ。

今、目の前の世界を大切にしないといけない。いけないではなくすべきだし、したいのだ。目の前の仕事を一つ一つ、コツコツとやっていく人間でありたい。

昨日、アランの幸福論に関するエッセイを検索していて、吉本ばななの面白いコラムを見つけた。↓

<a href="https://www.danshin-smile.com/me-and-my-happiness-4/">『手を動かす』</a>

簡単に言うとこういう内容だ(ネタバレになるが)。

・洗濯機を開ける度に憂鬱になる
・これだけ大量の洗濯物を、本当に干せるのだろうかという気分にすらなる
・しかし、干すしかないので諦めて干していく
・すると、自然にいつの間にか洗濯物はなくなっている
・人生の仕事や苦難も、こんな感じで徐々に解決していくものではないか
・大切なのは「まず手を動かす」「動かし続ける」ことではないか

…という内容だ。私のセンスで正しく要約できているかは不明だが、少なくとも私はこう受け取った。

アランの幸福論を、吉本ばななはうまく言い表していると思う。「手を動かす」というタイトルは、まさにアランの幸福論に相応しい一言だ。本当に全編がそういう内容なのだ。

心療内科の先駆け?になるのか忘れたが、森田療法というのがある。教職でも必ず習う重要な内容だ。

森田正馬という人が提唱した精神医療で、その治療法の1つに「とりあえず働く」というのがあった、と記憶している。とりあえず働いて体を動かし、人と関わっているうちに自然によくなる」という考え方だ。

これはある意味「都会というジャングルで生きる猿になれ」ということだろう。ルソーのエミールでは下のように書いている。

(思い出しながら引用)

エミールは野蛮人である。しかし、彼は森に住む野蛮人ではない。都会に住む野蛮人なのだ。

私たちは彼にどうにか「都会で生きていく」方法を教えなくてはいけない。都会の人々のようになる必要はない。しかし、彼らとうまくやっていかなければいけない。

(引用終わり)

アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言ったらしいが、これもエミールの言っていることと同じだろう。

・社会に適応する
・しかし、そういう「動物」なのだ
・人間社会に合わせることは不自然なのではない
・むしろそれを避ける方が不自然なのだ

ということだろう。とまあ、書いているうちに眠くなったのでここで終わります。眠くなりたいと思って書いていたのだ。眠れなかったので。

これで安らかに眠れます。

何を見てオナニーすればいいんだろうね。


まじめな話、人格のしっかりした人って何を見てオナニーするのだろう。冗談ではなく真剣に悩んでいる。男性でも女性でもどっちでもいい。

「何も見ないで妄想する」という回答は当然あるだろう。じゃあ、何を妄想するのか。

女性だったら何となく「自分が愛されている」という妄想になるような気がする。何かよくわからないけど「かわいい」とか「たまんねえ」とか連呼されながら、たくさんのイケメンとか、逆に自分を高嶺の花と見なしてくれるおっさんとかに集団で愛撫されてるみたいな…。

(超適当な想像だけど)

女性だったら、そういうのはあまり罪がない気がする。何というか「自分が被害者」だからだ。妄想の中で。いや、被害者というのも変だが。たとえばレイプものの想像だったら、女性は「自分が犯される想像」だから、同じ想像でも罪が軽い気がするのだ。

一方、男の方はどうかというと、たとえ妄想でもレイプはレイプだろう。作り物のAVの映像や漫画の映像を思い出すにしても、やはり何となく「それは人格者とは言い難い」と思う。

もちろん、人格者である必要などはないのだが、世間で人格者と思われている人は、一体どんなコンテンツを見るんだろう。コンテンツなど見ず、ひたすらデートで素人の女性とばかりしているのだろうか。それとも、風俗に行きまくっているのだろうか。

キムタクとかでも結構AVが好きらしいので、案外イケメンでもAVは観るのかもしれない。なんか、書いているうちにどうでもよくなって射精したくなったので、一度ここで切ります。

34歳の誕生日に思うことをつらつらと。

今日は誕生日だった。34歳になった。

いい1日だったかと言われると半々である。いい部分も悪い部分もあった。

朝一でずっと遅れていた法人移転登記の書類を、移転元に送った。どこかは言わない。このブログは完全匿名で、私の素性はできるだけ伏せていく。

…といいつつ。誕生日と年齢はすでに明かしてしまっているのだが。何はともあれ、遅れていた移転登記が無事に完了したのは本当によかった。

いや、まだ完了していないが、書類を完成させて送れただけでもかなり前進したのだ。そして、今気づいたがオンラインからの申請をまだしていなかった。

役所の営業中でないと使えないので、明日の午前9時以降にやろう。

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で、何が今日の悪い部分だったかというと、登山家の栗城史多(くりき・のぶかず)さんが亡くなったニュースについて、

・内心喜んだ
・いかに彼が偽者だったかという情報を読み漁っていた

ということだ。もうこういうのは卒業すると決めたのだが。自分の人生に本気で向き合っていないから、こういう話題に飛びついてしまうのだろう。

もちろん、登山家の方々が彼を批判するのには正当な理由がある。彼らが批判するのはいいのだが、私のような外野、登山のことはもちろん栗城さんのこともほぼ何も知らない人間がこういうのを見たって、何の意味もないのだ。


栗城さんは私に似ているように感じた

勝手に、栗城さんの悪い部分は私の悪い部分にそっくりだと感じた。自分を大きく見せようとする点だ。あるいは「自分はもっと大きい」と思っている点だ。(見せようとしていなくても)

栗城さんが本当はどういう人なのかは当然わからないが、世間の批判を見ていると「自分を実像よりすごい人に見せようとしていた」「あるいはそうせざるを得ない境遇に自分を追い込んでしまった」というのは感じる。そう間違ってはいないだろう。

どこかで正直に話せばよかったのではないか、という気もする。他人事ながら。TOKIO山口達也さんもそうだが、本当の弱い部分を見せていたら、何か変わっていたのかもしれない。

といってもそれは栗城さんの場合、仕事や収入源を失うことに直結していただろう。山口さんの場合は無職になるまではいかなくても、仕事激減くらいのことはあったと思う。正直に弱みを見せることができなかったのは当然だと思う。

私だってできない。借金が結構な金額あることは家族にも誰にも言っていない。別に誰にも助けてもらうつもりはないし…、と言いながらずっと誰も助けないように生きてきた。

私はこれでいいんだろうか。と誕生日に迷っている。誕生日なんてただの幻とは思っている。

電通の高橋まつりさんは、クリスマスに自殺してしまった。クリスマスというのは多分偶然ではない。こういう記念日の類は、人間の不幸をひどく重くするものだと私は思う。

私はちょうど二年前に謎の腹痛を発症した。今となっては多分もう大した病気ではないという自信がついたが、これまでに8回倒れている。初回は1週間ほど動けなくて、その後は4日、3日…とだんだん短くなっていった。

最後に倒れたのは約3カ月前の3月上旬で、その時は2日で治せた。

…と話が逸れた。実はその最初の発症の時も下のような特別な日が重なっていたのだ。

・私の誕生日
ZARD坂井泉水さんの命日

私の誕生日と坂井さんの命日は同じ日ではない。私の誕生日の方が少し先である。

・誕生日に祝われることがない
・坂井さんのことも、もうどうでもよくなっている

ということに孤独を感じて、さらに仕事絡みでちょっと気がかりなことがあった時「もし、仕事ですら居場所がなくなったら、自分はどうなってしまうのだろう」と思った時、突然痛みが発症した。

…と、こんなのは他人にとってはどうでもいいことだ。私がいいたいのは、あの時に痛みが生じたのは、間違いなく上記の2つの特別な日が重なっていたから、ということだ。

その後も1年目のクリスマス、2年目の大晦日など、ことあるごとに記念日に再発した。こういうのに翻弄される方が弱いというのはわかっている。しかし、やはりこういう強迫観念を世間のみんなで作り上げるのはどうなのか…。

などと批判めいたことを書きながら「いや、やっぱり自分のせいだよな」と思ってしまう。高橋さんについては誰も責められないと思うが。私は私で、勝手に一人で一人になっているのだ。

今「一人で一人になっている」という文章を書いて、何となく「うまいこと言った」という気分になった。世間的にこれがうまいかうまくないかわからない。

確かなことは、私はいつもこうやって何か計算しながら生きているんだな、ということ。何か不幸の種を自分で見つけては悲劇の主人公になろうとしているんだな、ということ。

アランの『幸福論』で「短剣の曲芸」のたとえがあったが、「次々と短剣を自分の頭上に乗せて自らを危険にさらす曲芸師」のように、自分の頭上に、身の上にどんどん不幸を重ねていたのだろう。

僕は自由にならなければいけない。今、一人称が突然僕になったのは、やはりこっちの方がしっくりくるからだ。

「私」と書いていたのは、30代半ばにもなって「僕」というのは何となく恥ずかしく感じたからだ。自分を若いと思いたがろうとしているみたいな―。もちろん、僕と言っている人たちにそういう気持ちはないだろう。

ただ何となく勝手に僕本人が、過去にそういう書き込みをネット上で見て(注:大の男が「僕」というのはおかしいという内容を見て)それを気にしているからだ。

確かに若者ぶろうとしているとか、自分を客観視できていない状態でポエマーのように「僕」を連呼するのは恥ずかしいと思う。しかし、そうでないなら、自然に浮かんできた方の一人称を使えばいい。

「私」だと何となく女性に見えるかな、というアホな期待?のようなものもあった。男性は一定の割合でネカマ願望を抱えている人が多いと思う。何となく、ブログをつけている女子大生やOLさんになりきってみたいのだ。

そんな話はどうでもいい。どこから一人称の話になったのかというと、

・誕生日に、道に迷っている
・誕生日なんてただの幻だ
・こういう幻は無視した方がいい
・高橋まつりさんもクリスマスに亡くなってしまった
・自分の腹痛が始まったのも2年前の誕生日&坂井さんの命日の後だった
・あらゆる幻想から自由にならなければいけない
・一人称の使い方も含め

という話だった。ずいぶんと飛躍しているが、僕の脳内はいつもこのように騒がしい。落ち着くことがないのだ。もっと落ち着いた生活をしたいものだ。一挙手一動足をもっと落ち着いて、堂々としていて、安らかなものにしたい。

とりあえず、明日は今書いている1記事は完成させよう。それから、町役場に固定資産評価証明書を取りに行こう。

…と、こうして日常生活のことを書いていくと、どうしてもだんだんと自分を特定できる情報が増えてきてしまう。どうしよう。別に誰かの悪口は書いていないからいいか。

でも、法人移転登記が遅れたとかは書いてしまっている。しかし、そこを隠したら日記として死んでしまうと思うのだ。いや、すでに死んでいるかもしれないが。

栗城さんや山口さんを見ていて思ったのは、人間は正直になった方がいいということだ。それだけは間違いないと思う。正直になれていたら、何か変わっていたのは間違いない。相当難しいのはよくわかる。

彼らのような有名人ではなく、失うものが何もない僕だったら、正直になるのはもっと簡単なはずなのだ。と思って、このブログはできるだけ正直に書こうと思って、今日始めてみたのだ。

法人移転の遅延は、何年くらいで時効になるんだろう。5年だろうか。こういう書類の役所での保管期間は確か5年だったと思う。さすがに5年間何もなかったら、その後で過料を要求されることはないと思うが…。

結局何をいいたいのかわからないブログだったけど、こんなのでも同じように悩んでいる人にとって「俺より酷いやつ、道に迷ってるやつがいた」という風に思ってもらえたら、何がしかのプラスになるのだろう。